【創作小説】こんとんのはな【第13話】
「……えん——」
花寿美は名前を呼びかけて、しかし途中で止めた。
花寿美の上に跨いでいるのは、腕。
大きな獣の腕。
燃えるような毛皮
いともたやすく裂くであろう爪。
順に視線を上げて、輪郭をなぞっていく。
しなやかな尾と弧を描く象牙。
全てを吸い込むような、鼻。
「これ以上お嬢に近付いてみろ。即刻に消す」
恐ろしい姿をした獣がそこにいて、そう喋った。
聞いたこともない低い声、見た事もない四体だけど……
「……え……んじゅ?」
獣のその見透かすような瞳……その目は知っている。
長い鼻が花寿美の声に反応した。
しかし、逸らすように聞こえない振りをした。
恐ろしい怪物。
花寿美が知っている、動物ではない。
しかしそこにいたのは、紛れもなく“獏”であった。
乾いた口の中は唾液もないのに、花寿美は喉を鳴らした。
息を飲んだことに近い。
花寿美は体を固くなって動けない。
そんな花寿美を置いてけぼりのまま、洋の声がした。
「……やってくれるね。……よく入ってこれたな」
吹き飛ばされた槐の姿をしていた洋の影は形が崩れ、赤い目が光った。
褐色に黒ずんだ肌に背中から黒い蝙蝠(こうもり)の翼が生えていた。
「あんたを遠ざけようと数日前からわざわざ近所に罠をしかけといたのに……戻ってくるの早いじゃんか」
「……はっ、笑わすな。さすがにお嬢に直接干渉してくりゃあ一発で気付くに決まってんだろう。下級悪魔が神に勝てると思うなよ」
「お前が神だって……?『笑わすな』はこっちの台詞だよ。チンピラ風情が大層な肩書きを手に入れたからって粋がるな。元妖怪の成り上がりのくせして……だって見てごらん?」
洋が指差した先へ槐が目を向ける。
そこには槐を見上げ横たわる花寿美でいた。
「お嬢……」
胸の前で拳を固く握りしめて、花寿美は声も出さずに震えた。
目の前にいるのは、いつも見ていた……悪夢の化け物。
唇も固く閉じて堪えるが、その中で歯が震えてカチカチと音が鳴る。
「……お嬢」
先ほど洋が化けていた槐とは掛け離れた姿。
それが槐の真実の姿。
なのに震える。
いつも夢に見ていた化け物は、ずっと花寿美の傍にいてくれた男だった。
「……すみません」
花寿美の上に跨いでいた前足がゆっくりと避けた。
煽るように洋は笑った。
「ほら、“正義の味方”を見て彼女は怯えているよ?お前が化け物じゃなけりゃあ何なんだ?」
大きな図体に比べて小さな目が伏せる。
「すみません、お嬢。……すみません」
槐は何度も謝る。
何故謝るのか花寿美にはわからないが、何かを言うことも出来ない。
上体だけ起こし、お尻を床に付けたまま、そのままズルズルと後ろへ後ずさり、“獏”から離れた。
少し離れて、遠目から姿を何度確認しても、それは確かに禍々しくさえ思える燃えるような姿をした獣だ。
いつも見ていた獣。
夢で、ずっと、ずっと前から。
「なんで……槐……なんで……」
「貴女が悪夢を見やすくなったのは、自分のせいなんです」
先ほどのドスを利かせた低い声ではなく、槐は呟くように小さくこぼした。
「まだ幼い貴女が夢魔に襲われていたところを……貴女のお婆様に頼まれて、自分が祓いました。しかし上の許可もなく、手順も無視して勝手にやったことで、貴女の『現(うつつ)と夢の狭間』に自分の力の影響が残り……歪(ひず)みが出来た。本来、人間が誰しも持っている最低限の防衛の力を自分が壊しました」
『槐様……お願い、この子を……花寿美を……花寿美を守ってください……お願いです、どうか花寿美を』
遠い日の記憶。
祖母が泣きながら、必死に獣に願った。
『……花寿美お嬢さん』
もう大丈夫です……と鋭い牙と爪を隠さず、禍々しい鼻が小さな花寿美を抱いた時
幼い花寿美は、
『あっ……あっ、い……や……』
恐怖に負けて泣き出した。
「……あ」
花寿美は忘れてしまっていた幼い時の自分の記憶と繋がり、口で自分の手で覆った。
槐は寂しげに笑った。
「時間が無かったとはいえ、貴女の『狭間』を無理矢理に開けて壊してしまっただけでなく、トラウマまで残してしまって……きっと償うには十年の時間も足りないですね」
洋は光の渦を纏ったあと、もう一度『人型の槐』に姿を変えて、笑った。
「ははは、日下さん……よく見てあげなよ。この醜い獣が君が抱いてほしいと思っていた男の真実の姿だ」
槐は花寿美から目を逸らした。
「……お嬢……すみません」
「槐」
「見ないでください……お願いです、見ないでください」
消えそうな声がもう一度「……見ないで」と呟く。
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